日比谷公園にあるヤップ島の石貨について

 

現在の展示

 

ヤップ島の伝説によると、大昔、海で遭難(たぶん)したヤップの男たちがパラオにたどりついて、ロックアイランドを形成するキラキラ光る石灰岩を見て、それで「大きな魚=鯨」を彫ってヤップ島に持ち帰り、皆なを驚かそう、あるいは感動させようと思い立って彫り始めたそうです。ところが大きな鯨を彫り上げてみると、どうにも鰭や尻尾が運搬の邪魔になる...そこで尻尾を落とし、鰭を落として今の形になったとされています。だから石貨をよく見てみると、一方がやや大きめな楕円形になっています。

そうして鰭や尻尾を落としてみたものの、これまた運びにくい。そこで真ん中に穴を開けて、そこに棒を通して運ぶことにしました。小さなものはそのままカヌーに乗せ、大きなものは棒の両端を筏で固めて海に浮かべ、カヌーで曳いて運んだのです。

したがってヤップの石貨の正しい置き方としては、下の図のように鯨の頭部分(赤字の上)を上に、尻尾部分(同様「下」)を下に、やや傾けて(15度くらい)立てかけます。

またヤップ島では、何らかの事情(ヒビが入ったり割れたり)で立てられなくなった石貨は価値を失ったとみなされます。日比谷公園の現状の置き方は向きも角度も間違いで、 その写真を見せられたヤップ人は、「これは石貨の置き方ではない!」とそろって不快感を表明します。

 

次に説明文の内容です。

まずヤップ島の丸い石に穴が開いたオブジェをStone Moneyとか石貨と呼び始めたのは外国人です。ヤップ人らも今さらそれを否定するのも面倒なので、外向きにはStone Money(石貨 )と呼んでいますが、ヤップ島の言葉では、地域によってraay(ライ)、あるいはfeaq(フェ)と呼びます。※ヤップ語の読みを間違って表記している文献やサイトをときどき見かけますが、上記のカタカナがもっとも近い発音になります(=フェイではありません!)

太平洋戦争後、アメリカによってもたらされたキャッシュ・エコノミー (貨幣経済)が蔓延するまで、ヤップ島は典型的な共生社会で成り立っていました。そういう社会では、人と人の結びつきが何より大切で、その結びつきを作るひとつのツールが石貨なのです。つまり、交換を通して両者(人対人、人対コミュニティ、コミュニティ対コミュニティ)が結ばれる。結ばれているということは、何かあったら お互いに助け合うということです。

そして石貨を含め、こういう結びつきを作るツールをやり取りするとき一番大事なのは、その場面(両者が繋がろうとする場面)で、一方から差し出されたツール(たとえば石貨)が、その目的(相手から提供されることを期待している便宜)と「釣り合う」ということです。両者が「釣り合った」と認めないと、結びは成立しません。つまり、価値が高すぎても低すぎても相手に失礼...という感覚です。

現代でもヤップ島の石貨は上記のように使われますが、「詫び」に使われるケースも多いです。つまり何らかのトラブルで壊れた関係(結び)を修復するためにも使われます。ある村の若者が他の村にドロボーに入ったら、もちろん刑事罰も食らいますが、それだけでは済みません。ドロボーを出した村は、迷惑をかけた村やファミリーへの詫びに、「どの石貨(または貝貨)が『釣り合うか』」、ほんとうに真剣に吟味します。

 

上記のような使われ方や役割をご理解いただくと、外国人が勝手にStone Moneyだの石貨だのと呼んでいるヤップ島の丸い石のオブジェが、貨幣経済にどっぷり浸かっている私たちが考えるところのマネー、おカネではないことをご理解いただけると思います。 

したがって、直径の大小やら、表面が滑らかか粗いかやら、形のよしあしやら、運搬の難易やらで価値が決まるなどと大雑把にくくったり、ましてや当時の円貨でその価値を表示 したりしている日比谷公園の文言は噴飯ものの大間違いで、ヤップ島の文化とヤップ人を冒涜するものです。

 

また英文の文末で、

(Contributed by the Mayor of Yap Island Branch Office in January 1925)

としていますが、これではミクロネシアを日本が統治したことを知らない外国人には、「ヤップ人の」Mayorかと勘違いされかねません。ここは、ちゃんと日本統治時代の南洋庁ヤップ支庁長とするべきです。

例:

Contributed by the Japanese Governor of Yap Branch, Nanyo-cho (South Sea Islands Agency) in January 1925